中村哲医師は叫ぶー平和に必要なのは武器ではなく、命の水である

アフガニスタンで、危険を顧みず献身的に人道支援活動に取り組んでこられた中村哲医師(73)が12月4日、1時頃、銃撃され亡くなりました。

中村先生は、現地時間4日朝、アフガニスタン東部ナンガルハル州の州都ジャララバードを車で移動中、何者かに襲われ銃弾を受けたようです。

病院に運ばれ、いったんは回復に向かったそうですが、容体が急変し帰らぬ人になりました。

同乗していた運転手や警備員ら5人も死亡したということです。

自衛隊ではなくて、真の「国際貢献とは何か」ということを身をもって世界に示された、類まれなお方であった、と永遠に語り継がれることでしょう。 

小さい頃から父親に、「世の中に役に立つ人間になれ」「親を捨ててもいいから、人の役に立つ人間になれ」と言われながら育ったそうです。

その言葉通り、言葉の創造する力によって、中村先生はその通りの偉大なお方としてこの世を終えられました。

 


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中村先生のプロフィール

名:中村哲

生年月日:1946年9月15日

出身地:福岡県福岡市

学歴:古賀西小学校、西南学院中学校、県立福岡高等学校、九州大学医学部卒

宗教: キリスト教プロテスタンのクリスチャン

享年:73歳

有名な小説家の火野葦平は母方の伯父だそうです。

火野葦平の妹が中村先生の母親だということになります。

外祖父で若松において港湾荷役業を営んでいた玉井金五郎という人物がいます。

映画『花と竜』のモデルとなったくらいですから、気骨があって人情味も細やかな器量人であったということです。

それで周囲からは玉井家が暴力関係者と誤解されたこともしばしばあったようで、中村先生も小さい頃は「えらい迷惑を被った」と述懐されています。

西日本新聞記者で同社北九州本社代表を務め、現在はプロサッカーチーム:北九州ギラヴァンツの代表取締役社長の職に在る玉井行人氏は従兄弟(いとこ)に当たるそうです。 

中村先生は大学卒業後、国内病院  での勤務 を経て、1984年、パキスタン北西辺境の州都シャワールというところに赴任します。

以来、そこで約20年以上ものあいだ、ハンセン病などの医療活動に従事されたようです。

パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動されていたのですが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が難しくなったので、アフガニスタンにその拠点を移しています。

自身はキリスト教プロテスタンバプテスト派のクリスチャンですが、決して他の宗教を認めないといった偏狭な態度は決して取られず、現地の人々の信仰や価値観にも十分な理解を示されていたそうです。

2003年にアジアのノーベル賞とも言われたマグサイサイ賞を受賞され、2004年には、皇居に招かれ明仁天皇・美智子皇后と紀宮、清子内親王(いずれも当時)へアフガニスタンの現況報告を行われています。

そして同年には、第14回イーハトーブ賞を受賞しています。

なおイーハトーブ賞とは宮沢賢治の名において顕彰されるにふさわしい実践的活動を行った個人・団体に対して贈られる賞」です。
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医療から農業支援への方向転換の道

2000年に起きた大干ばつの時に活動の中心も医療支援から灌漑事業(水路を作って水を引き土地をうるおすこと)や農業支援の方に方向を転換します。

「武器ではなく民生支援こそが平和の道」として現地スタッフとともに汗を流す道に入られたのです。

中村さんにとっては土木は未経験だったけれども独学で井戸を掘り用水路を建設します。

なぜ医者のあなたはそこまでして過酷な環境で活動を続けるのかー日本で講演するたびに問われた質問です。

中村さんの答えは

「餓えは薬では治せません。100の診療所よりも一本道の用水路が必要なのです。干ばつで餓え、泥水を飲んだ子供たちが相次いで赤痢などに感染していく姿を目の当たりにしてそう答えを出した」の でした。 

その間、天皇陛下御在位20年記念式典 にも明仁天皇・美智子皇后が関心を持つ分野に縁のある代表者の一人としても紹介され列席しています。

2001年10月2国会の発言でも「必要なのは自衛隊ではない」と訴え続けました。

「本当の国際貢献とは、すなわち日本が世界の平和のためにできることとは自衛隊派遣ではなく土木や農業で人々の食を救い、その後での医療支援だ」と訴え続けのです。

中村さんは現地で銃弾に倒れた人々を数多く治療する中で「これは対症療法(あらわれた症状だけを治すこと)に過ぎない」との思いを強くし、紛争事態の根本的な解決を目指したのです。

「アフガンの紛争は干ばつで食べられないために起きている。農業を取り戻すことこそが紛争解決の道だと信じ、ここまでやってきました」と述懐しておられます。 

なお2001年と言いますと、中村さんの次男が脳腫瘍を宣告された年でもあります。

その時も「現地の患者を捨て置くわけにはいかない」との考えから、日本には滞在せず2ヶ月ごとに行き来していました。

その1年後、その次男の方は10歳でこの世を去りました。

その葬儀の中で中村さんは「10歳で死ぬのも80歳で死ぬのも人生を全うすることに変わりはありません。私は現地で多くの人々の死を見てきました」と語ったこの言葉、この言葉には実に深いものがあると思います。 
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「水さえあれば」この地は救われるという信念

2010年、水があれば多くの病気と帰還難民問題を解決できるとして、福岡県の山田堰(やまだせき)をモデルにして建設していた、ガンベリー砂漠までの総延長25kmを超える用水路が完成します。

約10万人の農民の方々が暮らしていける基盤を作ったのです。

そして、約1万6500ヘクタールの農地に水を供給し、65万の人々の生活を支えてきたのです。

その功績で、同国のガニ大統領から勲章とその後また市民証を送られました。 

2013年、第24回福岡アジア文化賞大賞、第61回菊池寛賞を受賞し、2014年、『天、共に在り―アフガニスタン三十年の闘い』で、第1回城山三郎賞、第4回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞しています。

2016年、現地人が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。

住民の要望によりモスク(イスラム教の礼拝堂)やマドラサ(イスラム教の教育施設)も建設。このころ旭日双光章受章。

2019年12月4日、アフガニスタンの東部ナンガルハル州の州都ジャラーラーバードにおいて、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾しました

負傷後、現地の病院に搬送された際には意識がありましたが、さらなる治療の為にパルヴァーンバグラームにあるアメリカ軍のバグラム空軍基地へ搬送される途中でなくなられたのです。

外出する時は常に4、5人の護衛を付け、毎日ルートを変更する対策を講じていたと言いますが、そのたえざる変更が逆に襲撃する側との遭遇を招いたのかもしれません。

せめて防弾チョッキのようなものを着装していたらどうだったであろうかと考えてしまいます。

中村さんが襲撃されたこの事件に対して地下組織のタリバンはその報道官が声明を発表し、組織の関与を否定しています

一方でアフガニスタン大統領のアシュラフ・ガニーは「テロ事件である」とする声明を発表しています

荒んだ事件の多いこの頃の現代日本にも、かくも次元の高く尊いお方がおられたのだと思うと 悲しみとともに深い安堵の気持ちも起こります。

日本もまだ「大丈夫かもしれない」という一縷(いちる、わずかな)の希望が持てるからです。

中村先生の信仰の世界の聖イエスの言葉に「人、友のために己が命を捨てる、これ以上に大きな愛はない」という言葉があります。

中村先生はその大きな愛の中でこの世を去りました。

先生はその大きな愛ゆえに既に「今、大きな冥福のなか」におられると存じます。

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