なかにし礼さんの壮絶な人生ー過酷な”引き揚げ”体験と”食道ガン”完治

作詞家、小説家としてご活躍の”なかにし玲さん”が、来たる2月18日に「徹子の部屋」に出演されます。

この方の有名なことは多くの人が知る所ですが、並みの波乱万丈どころではない途轍もない壮絶な人生には、まさに「事実は小説よりも奇なり」の感があります。

必見です。

出典:なかにし 礼

なかにし 礼さんプロフィール
本名: 中西 禮三(なかにし れいぞう)
誕生日:1938年9月2日(80歳)
生まれ:満州国の旗 満州国、牡丹江省牡丹江市
職業 :小説家、作詞家
最終学歴 :立教大学文学部仏文科卒
代表作 作詩
『天使の誘惑』
『今日でお別れ』
『北酒場』
『石狩挽歌』
『時には娼婦のように』
小説
『長崎ぶらぶら節』
『赤い月』
オペラ
『天国と地獄』
『ワカヒメ』
『静と義経』
主な受賞歴 日本レコード大賞(3回)
日本作詩大賞(2回)
直木賞(2000年)
配偶者: 石田ゆり(中西由利子

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満州からの過酷な”引き揚げ”体験

なかにしさんは満州国といわれた戦前に日本によってできた国があり、そこの牡丹江省牡丹江市(ぼたんこうし、現在の中華人民共和国黒竜江省)に生まれました。

当時、日本によって擁立された満州国の皇帝がいて主要産業は満州鉄道を始め多くの日本の会社などがあり、お父さんもそこで一旗揚げようと日本からやって来て関東軍という日本の軍隊にお酒を収めて大いに繁盛していたようです。

満州は本来中国の領土でしたが、日露戦争の結果、当時の二大帝国主義国家であるロシアと日本が、弱体化していた中国の頭越しに1904年に条約を結び、日本は満州での権益を獲得していたのです。

満州帝国では「五族協和」「王道楽土」などと歯の浮く様なスローガンをかかげていたので、多くの日本人が満州へ行きました。

元から住んでいた中国人農民を追い出して日本から大量の開拓民を導入したため、やがて日本の敗戦で戻ってきた中国人に復讐され、開拓団員たちはとんでもない地獄を見ることになったのです。

さらに追い打ちをかけるように、ロシアが日ソ中立条約を勝手に破棄しドゥーと満州国を侵略、戦車と空からの機銃掃射(きじゅうそうしゃ、機関銃で次々と射撃する)で毎日毎日地獄のような日々が続くことになります。

当時5歳の中西少年は、両脇50センチくらいの所にその連射を受けたそうです。

とにかく生き地獄です。

お姉さんは、ソ連兵のレイプを逃れるために髪を切って坊主にし、顔に炭をぬって黒く変装をしていたそうです。
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作家五木寛之さんの過酷な”引き揚げ”体験

ここで、以前読んだ作家五木寛之さんの同じような体験を私は思い出します。

やはり状況はほぼ同じで、釜山(プサン)をめざした確か小学生の五木少年は、父と一才か二歳の女の子と必死に逃げまどうなかで、精も根も尽きて苦しんだ結果、このまま全員無事に逃げることは無理だ、と判断し「いっそ、すこし余裕のありそうな中国人の農家の軒先に<捨て子>として育ててもらおう、といって置き去りにしていった。

しかし何キロか行った先で、余りにも可哀そうになり、父子(おやこ)は必至な思いで引き返すと、そのまま妹が門のところで泣きながらいた、という。

多くの満州帰りの人々がこういう地獄の日々を送りながら、行倒れ寸前で日本をめざして逃げ帰った、という報告がたくさん伝えられています・

終戦後、満州からの引き揚げでは、中西さんは家族とともに何度も命の危険に遭遇、この体験は以後の活動に大きな影響を与えたと言われています。

8歳の時に小樽に戻り、中学から東京品川区大井町に落ち着く。

1958年に立教大学文学部英文科に入学し中退と再入学と転科を経て、1965年に立教大学文学部仏文科を卒業する。

その後、フランス語を生かして、シャンソンの訳詞を手がけていた頃、妻との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルのバーで『太平洋ひとりぼっち』を撮影中の石原裕次郎と偶然出会い知遇を得て石原に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1年後に作詞作曲した作品(後の「涙と雨にぬれて」)を自ら石原プロに持ち込んだのがきっかけで涙と雨にぬれて」がヒットするのです。

それ以後は、2000年に『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞、NHK連続テレビ小説『てるてる家族』の原作となった『てるてる坊主の照子さん』を始め『赤い月』『夜盗』『さくら伝説』『戦場のニーナ』『世界は俺が回してる』『夜の歌』などを執筆、順風満帆と言ってよい活躍をされています。

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なかにしさんのガンを完治させた画期的療法

なかにしさんと言えばその他その作品、業績は数えきれないものがあるのですが、ここで是非、それとは別に、特記しなくてはならない画期的な功績があります。

それは今までの医学界のがん治療に対してそれらを超えた有力な突破口の有力な一員になられたことです。

どういうことか?

今の最先端のがん治療は、①切ってしまう②抗がん剤➂放射線を浴びせる、が基本になっています。

しかしこの三種の治療法がまた大変弊害が多い治療としてもよく知られています。

とてもリスキーな治療法なのですね、実は。

今では、とても多くの人がこの怖さ、危険を知るようになっています。

幸いにも、中西さんは、持病の心臓病を持っていたため、それを理由にこの三つの治療法をしないですむ解決策を模索していたのです。

代替療法、漢方療法、丸山ワクチン、○○療法・・・・・・・・、いろんなガン治療法がありますが、怪しいところもあり、又今一つ実績がない、というものばかりのようです。

ところが、ひょんなことから、中西さんは自分の食道がんを完治させたある画期的治療法に出合うのです。

それは20年ほど前に日本に入ってきた「陽子線療法」というものです。

おなじみの放射線療法は、体の中に入るにつれて弱くなり目標についたころにはその力が衰えていくようです。

一方、陽子線のビームが肉体に入ったときは弱く、局部に入って100%働くというのですからこんな素晴らしいことはない。

  1. ただし、今のところ、成果の数が少ない
  2. 肉体の部位も限られている
  3. 絶えず動いているものにはあてにくい

ということがありますが、なかにしさんの食道がんは治った、完治した確認も取れています。

全国に7か所に増えているということは効くからふえているわけです。

しかし陽子線はそのビームをサッカー場の大きさで動かすので一基が80億かかるという。

日立製作所製だという。

これをその半分の40億のものを、現在計画中とのこと。

この治療にはその規模から治療費が¥300万がかかり、¥500万が国から出るという。

しかし厚生省の予算はわずか500人分のみだし、人々に知らしめていない。

どういうことか?

これは、おそらくではあるが、医学界からの圧力しか考えられない。

これを国がバックアップすれば、多くの病院が打撃をこうむる。

しかし、それでは、国民の為の厚生省ではないし病院ではない。

この画期的な療法の為に、陽子線療法の医者が各大学の医学部に行って学生たちに「共にやりませんか」と、その協力を求めてもはかばかしくないのは、学生の多くは医者の子弟だから従来の医学のやり方に従わざるをえない事情があるようです。

2月18日、「徹子の部屋」で、なかにしさんから、どんなお話が聞けるか、とても楽しみです。

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